なぜ日本の半導体は衰退したのか?台湾・韓国・米国は何を学んだのか

かつて日本の半導体産業は、世界を席巻していました。
1980年代、日本企業は技術と生産力の両面で圧倒的な存在感を放ち、「Japan as Number One」と称されるほどでした。

ところが、今やその主役の座は、台湾や韓国、そしてアメリカの企業たちへと移っています。
なぜ日本は、あれほど強かった半導体産業を手放してしまったのでしょうか?
そして、他国は日本の何を見て学び、いまの強さを築いていったのでしょうか?

この記事では、日本の半導体産業がたどった道のりをふり返りながら、
「失われたもの」と「今から取り戻せること」の両方に目を向けていきます。

かつて世界をリードしていた日本の半導体産業

1980年代、日本はまさに世界の半導体王国でした。
特にメモリ分野、なかでも**DRAM(ディーラム)**と呼ばれる記憶用チップでは、世界市場の約5割を日本企業が占めていたと言われています。

当時のNEC、東芝、日立などは、技術力・量産力ともに世界トップクラス。
“Japan as Number One”という言葉が海外メディアでも使われ、日本の「ものづくり」は憧れの的でした。

その強さの背景には、いくつかの要素があります。

  • **徹底した品質管理(QC)**と、工程ごとの職人技術
  • 製造設備を自社で持ち、設計と一体化できた強み
  • 政府の保護政策と産業育成方針(通産省時代)

この時代、日本の半導体企業は「設計から製造までの垂直統合型モデル」を採用しており、
“すべてを自前で作る”というスタイルが信頼と競争力の源になっていました。

しかしこの強さは、やがて変化の波を受け入れることができず、後の失速へとつながっていきます。
次回は、その転換点となった要因と、なぜ他国がそこから学び飛躍できたのかを掘り下げていきます。

どこでつまずいたのか?技術・政策・市場の転換点

1980年代、日本は半導体メモリ、特にDRAM市場で世界のトップに立ちました。
しかし1990年代に入ると、その優位性は急速に崩れ始めます。
そこには、いくつかの“転換点”がありました。


🔹 転換点1:製品構成の変化(DRAMからロジックへ)

日本はDRAMなどの「メモリ系」に強く、安定した量産体制と品質で世界をリードしていました。
しかし市場は次第に「ロジック系(制御・演算チップ)」へとシフトしていきます。
携帯電話やパソコンの普及、のちのスマートフォン時代を見越した演算処理系チップの需要が急増。
日本はこの変化に気づきながらも、得意な分野に固執してしまい、対応が遅れました。


🔹 転換点2:日米半導体協定による影響

1986年、日本とアメリカは「日米半導体協定」を締結します。
アメリカ側は、日本製品の市場独占や価格破壊を問題視しており、この協定によって日本企業の輸出を制限。
結果として、国内企業は価格設定・供給量・技術開発の自由度を制限され、海外展開の勢いを大きく削がれました


🔹 転換点3:産業政策の転換と民間依存

バブル崩壊後の日本政府は、半導体産業への“直接的な関与”を徐々に弱めていきます。
「官は口を出さず、市場に任せるべきだ」という自由主義的な風潮の中、
企業の再編・統廃合が進む一方で、政府の戦略投資やインフラ支援は大幅に減少しました。

同じ時期、台湾・韓国・中国・米国では、逆に国が積極的に技術分野を支援。
日本は「民間がなんとかするだろう」と任せきった結果、競争のステージが変わったときに足元をすくわれたのです。


このように、技術の変化、国際交渉の影響、そして政策判断のズレが、
日本の半導体産業を「頂点から徐々に滑り落ちる」状態へと導いていったのです。

3.台湾・韓国・米国は何を見ていたのか?

日本の半導体産業が迷走を始めたその時、
台湾、韓国、アメリカの企業や政府は、日本の成功と失敗の両方から多くを学び、
自国の戦略へと取り入れていきました。


🔹 台湾:製造特化+設計委託モデルの確立(TSMC)

1987年に設立された台湾のTSMC(台積電)は、製造専門ファウンドリ(受託生産)モデルを確立。
それまでの「すべて自前でやる日本型」とは逆に、
「設計は顧客に任せ、製造に徹する」というシンプルで効率的な戦略を取りました。

このモデルにより、ベンチャー企業や大学発の設計会社が急成長できる環境が整い、
結果として世界中の半導体企業がTSMCを頼る流れができあがったのです。


🔹 韓国:集中投資と国家支援の両立(Samsung)

韓国は政府が「半導体を戦略産業」と明確に定義し、
サムスンやSKハイニックスといった企業に対して、土地・資金・研究支援を強力に実施しました。

特にサムスンは、経営判断の速さと長期視点の投資により、
2000年代にはDRAMでもロジックでも日本を追い越す存在へと急成長。
国家と企業が同じ方向を向いていたことが、韓国の強さを支えています。


🔹 アメリカ:設計・資本・エコシステムの強みを活かす

インテル、AMD、エヌビディアなど、アメリカは「設計に特化した企業(ファブレス)」が多く存在します。
これらの企業は、高度な設計技術を持ちながら、自社では工場を持たないスタイルを確立。
製造は台湾や韓国に委託しつつ、巨額の研究開発費を投じて最先端技術をリードしています。

加えて、ベンチャー投資や大学・国家研究機関との連携が非常に活発で、
エコシステム全体で「半導体産業を強くしよう」という意志が明確に存在しています。


これらの国々に共通するのは、
日本の「過去の成功」と「その後の失速」から学び、柔軟かつスピーディに動いたこと

そして何よりも、「国と企業が“未来に向けて何を育てるか”を明確に決めていた」ことが、
いまの強さにつながっています。

4.日本が学び直すべきものは?

日本の半導体産業が再び脚光を浴び始めている今、
かつての成功体験に戻るのではなく、「なぜ失敗したのか」を見つめ直し、
次の10年に通用する仕組みと文化を整えることが重要です。

では、日本がこれから“学び直す”べきポイントとは何でしょうか?


🔹① 技術の選択と集中、そしてタイミング

過去の日本は、持っていた技術の精度は高くても、
**「何に集中するか」「いつ動くか」**の判断が遅れた場面が多くありました。

今後は、国と企業が同じ方向を見て、
「世界がどこに向かっているか」を見据えた技術投資が求められます。
ラピダスの2nm開発などは、その再挑戦のひとつとも言えるでしょう。


🔹② 官民連携の在り方の再構築

日本は長く、官が口を出すこと=古いやり方、という空気がありました。
しかし、台湾・韓国・アメリカの事例を見ると、国家がビジョンを持ち、民間が走る体制は非常に強いのです。

産業政策は、もう“後押し”ではなく、
「共に設計していく」時代へと変わるべきです。


🔹③ 長期的視野と“育てる文化”

日本の企業文化には、どうしても「短期の成果を求める」傾向が根強く残っています。
ですが、半導体のような超先端技術は、数年先を見据えて投資・育成・試行錯誤する分野です。

たとえばラピダスが「失敗できない国家プロジェクト」としてプレッシャーを受けるのではなく、
「成長する場」として長期的に支える文化こそが、次の強さをつくる鍵になるでしょう。


日本がもう一度、世界と肩を並べて半導体を育てる国になるために──
いま必要なのは「技術」だけでなく、「社会全体で育てるという土壌」なのかもしれません。

5.まとめ・読者への問い

まとめ・読者への問い

次回予告|“技術の主権”を誰が握るのか?

日本は今、半導体を通して「国家としての立ち位置」を再び築こうとしています。
その中で注目されているのが、テンストレントとの提携や、ラピダスによる2nm世代の開発。
では、この戦略は本当にうまくいくのでしょうか?
政府の支援体制、北海道という土地の意味、そして安全保障や国防との関係は?

次回は、「日本が半導体を“どこで”“なぜ”作るのか?」という視点から、
より深くラピダス戦略の真意に迫ります。

🔗 公開後にこの記事からリンク予定です

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